薊畑

Thistleのブログ

すずめの戸締り考察感想

すずめの戸締りを見てきました。 あらすじは他サイトに譲ることにして、作中物の元ネタや進行について考察したことを書きます。 ここから下本編全てのネタバレありです。

ミミズとは?

昔、地震は地中の大鯰が暴れて起こすものだと考えられていました。その大鯰を押さえつけて地震を止めていたのが要石で、実際には鹿島(茨城)と香取(千葉)にあるらしいです。要石は大鯰を貫く一本の大きな棒の両端で、鹿島が頭側で香取が尻尾側だとか。

すずめの戸締りでは、大鯰の設定はあまり使われておらず、ミミズは地震エネルギーや天災そのものの象徴として扱われているように感じました。

後戸に関して

古くの日本では、土地にはそこを司る神がいると考えられていました。すずめの戸締りでは、この考えに加えて土地に人間が住んでいるとき、人は神からその土地を借り受けていると捉えたようです。

話は変わりますが作中で重要な役割を果たす後戸、これに関して作中では、普段は住む人の思いが重しとなって閉じていると説明されています。これらの事柄から後戸について時系列に沿って考察してみましょう。

古くは神が支配していた土地、そこに人が住むようになり、土地の所属が神から人へと切り替わります。そこの後戸は、人が住んでいる間はその土地に住む人の思いによって抑えられていました。 しかし、その土地に人がいなくなると、思いが薄れ後戸が開き、そこから災い(ミミズ)が出てきてしまう。作中の後戸が廃墟や被災地にのみ存在するのはこれが理由でしょう。それを止めるために行動するのがとじ師であり、彼らは扉を閉じる、というか扉の存在する土地を神々に返して回ることで、人の閉じられなくなった後戸を神々の下に返しているのです。

だからこそ扉を閉じるときの祝詞が「~賜りし山川を御返し申す(うろ覚え)」や「お返しします!」となります。また、扉を閉じるときに住んだ人の思いを想い起こすのは、そこにかつてあった思いを一時でも呼び起こすことで、扉を閉じやすくしているのでしょう。

作品の軸は何か?

結論から先に書くと、この作品の軸は「生きる欲求」です。後述する2つの側面のどちらにおいてもこれが主軸に据えられています。

すずめの戸締りという作品には、災害を止めることとすずめの成長という主に2つの側面があります。ですが、すずめはどこがどう成長したのかということはすぐにはわかりません。なぜなら、彼女は作品開始時点で明るく社交的で精神的な発達も順調に見え、これ以上特に成長する点が見当たらないからです。しかし、彼女の言動を振り返ると、一部に腑に落ちないものがあります。「私は死ぬのは怖くない!(うろ覚え)」がそれです。また、成長モノであるのに最後の行動が「鍵を閉めて戸締りをする」である、というのは異色です。鍵閉めは一般に何かを封じ込めるための行為であり、成長の最後の行動としてはふさわしくないからです。これに関して考察をしましょう。

彼女は4歳の時に東日本大震災に遭い、母親を亡くしています。唐突に家が壊れ、町が流され、大勢の人が死に、母親もいなくなってしまった4歳の少女は、死というものを非常に身近に感じ、生を儚いものとして期待することをやめたのではないかと思います。その結果、彼女は生者でありながら死者に近づき、常世に行けるようになったのでしょう。現在においても彼女がミミズを見ることが出来るのは、この生への執着のなさが由来なのだと思います。これが彼女が物語最後で成長する起点です。

話を変えて、もう1つの側面である災害の阻止と、要石達に関してです。まず、要石ダイジンは神であり、気まぐれな存在です。その思考は人には知ることが出来ませんが、一つだけ分かることは彼(彼女?)がすずめを気に入っているということです。彼の行動原理として読み取れることは、大きくはすずめの望みをかなえること、すずめを守ること、すずめの傍に2人きりでいること、災害を止めること、の4つです。4つ目に関してはすずめがそう望んだからとも取れるので、実質的には最初の3つだけでしょう。次に、要石サダイジンも神ですが、こちらの行動原理は災害を止めることです。環さんに乗り移った際の言動が、すずめを連れ戻そうとした環を、2人を仲違いさせることで阻止しようとしたためと考えられることや、その後のセリフから読み取ることが出来ます。そして彼が災害を止めようとするのは、人々が生きたいと望んでいるからだと思います。要石を刺すときの祝詞が「大狼よ、生は儚いものと知っているが、だが私たちは生きたい!だからお願いします!(大幅意訳)」であったのはそのためであり、要石はそもそも人々の災害を止める意志を浴びた石が付喪神化したもの、生きたいという願いを叶えるということが誕生時からの存在意義なのだと考えています。

さて、すずめの話に戻ります。母の死後環さんに拾われたすずめは、九州にわたって健やかに育ちます。彼女は生者の住む現世の中で、旅の道中に象徴されるように、様々な人と関わり触れ合って過ごしてきたのでしょう。その中で、彼女の生への期待のなさは徐々に薄まり、普通の、明るく社交的な青年に育ちました。ですが、母を亡くしたことはそう簡単には消えず、「死ぬのは怖くない!」という考えとして彼女の中に残り続けていました。その中途半端な状態を表すものが椅子と、常世に入れないことです。彼女はいつからか椅子を大事にしなくなっており、ここから過去のどこかで既に母という死者に囚われなくなったこと、そして常世が見えるが入れないことから、死んでも構わないと思ってはいるが完全にそうとも言えない、ということが読み取れます。

このような状態のすずめは、草太に出会い、彼の彼女と生きたいという願いを聞くことにより、ついに自分も生きたいという生への執着を取り戻すに至ります。すずめの戸締りにおけるすずめの成長とは、生への期待を失っていたすずめが、人々との出会いの中で徐々に生の魅力を感じていき、最後には自らも生きたいという願いをはっきりと意識する、という流れになっており、生への欲求を持ち希望をもって生きていくことに対する強い賛美を作品から感じ取ることが出来ます。

物語終盤の出来事は多くがこの欲求を表現する働きを持っており、例えば、ダイジンがすずめと生きることを諦め要石に戻ったのは彼女が強く認識した(彼と)生きたいという願いを叶えるため、要石を刺すことに成功したのは彼と彼女が強く持っていたその欲求が要石本来の存在意義と一致したため、すずめが幼少期のすずめに会ったのは母の存在が彼女にもう必要なかったからであり、かつ彼女が未来を生きることに希望を持っていることを示すため、椅子を渡してしまったのはもう必要なかったから、戸を閉じ鍵を閉める行為を最後に行ったのは、常世に行くことのできる唯一の扉を閉じることで、もう彼女が常世への未練を振り切ったと示すため、最後のセリフが「おかえりなさい」であるのは、彼女が完全に現在この時の現世を生きていて、彼とともにいるそこを生きる場所だと心の底から思っているからです。

ここまでの考察から、タイトル「すずめの戸締り」は、すずめの中の常世への道を閉ざした、常世常世としてあるべき場所に収めた、ということを表しているのでしょう。

すずめの成長、という側面と、日本を救う、という側面の2つをすずめの生への希望、生への欲求という一つの軸を鍵としてまとめ上げることに成功しているこの作品は、素晴らしい構成をしていると思います。また、新海監督の直近2作品がボーイミーツガールが主軸にあったのに対し、今作はそこからさらに一歩踏み込み発展したものを描いているため、今までの作品の中でも特に考えられた作品なのではないかと思います。

最後に

後戸が何かやミミズが何か、といったことに関しては考察しきれていないので、一時停止機能片手にもう1度見たいです。

感想

新海誠女子高生に座られたり踏まれたりしたかったんですかね。